いよいよ、振り返りの会のシリーズも今回で最終回です。

「一緒に」ということは、
“自分の思ている”気を使いながら、
それぞれ思い思いに“自分の”仕事をしている。
ということを前回書きました。

 

 

では、「共に」というのは、どういうことか?

同じ舞台に、目の前に一緒に居る。

一緒に何かをやっている。

それは、「一緒に」と同じ。

 

しかし、気を使っている訳ではない。

それぞれがやりたいようにやる。

そして共演者達からの反応がある。

もちろん、「一緒に」の場合も反応はあるが、

「それもいいね」という気遣いの反応で、

この場合の反応には、主張が入る。

主張が入った反応だから、ぶつかる。

ぶつかる反応に対して、無視してやりたいことをやっていると、

自分勝手なバラバラで収集がつかない状況になる。

おとあそび工房に、私は最初にこの懸念を抱いた。

 

 

しかし、無視しないで、その反応を受け止め、

それに対して、またこちらが反応する。

この繰り返しは、自分の思うようには行かない。

だからこそ、思わぬ自分が出てきたり、

想像できない事が起ったりする。

その結果が面白い表現になってくる。

 

 

そして、その表現という結果の前に、

まず、それぞれの反応の応酬は、

緊張感と共に、それぞれの身体から表出してくる生命が基盤になる。

だから、舞台、劇場、お互いの身体に響き、

空気を、心を動かす。

 

 

これは、決して気を遣っていてはできない。
見ていてはできない。
丁度、この文章を書いて居る時に、
知り合いのFBを見た。
「don’t think feel!」
「考えるな、感じろ!」
ブルースリーの有名な言葉。

 

 

感じることで、共にあることができる。

だから対応できる。

支える・支えられる、という立場もなく、

気を遣って一緒に生きるのではなく、

共に生きる。共に生かされる。

 

 

障がいの有る無し・肩書き・出身・表現のジャンルなど、

雑多な様々な種が、

それぞれの種としてではなく、

ただ、共に生きている人・身体・生命になる。

「今、ここで息づいている」と鎌田さんが言ったが、

恐らく同じことを言っているのではないかと思う。

 

 

この「共生」は、

おとあそび工房の大きな特徴であり、

私は、他にこのような団体は見たことがない。

ジル・クレマンの活動が、

人間関係・政治的・社会的な表現であるのと同様に、

おとあそび工房の「共生の美学」は、

表現としてはもちろん、

人間関係・政治的・社会的、

そして、身体的にも非常に示唆に富んだ、

眠っていてはいけない思想であろう。

 

 

これまで綴ってきたおとあそび工房。
今年は第5回公演。
12月22(土)です。

〜多様性が紡ぐ即興表現のドキュメンタリー・ライブ〜
「たまたま黄身のままで」
お見逃しなく。

詳細は、こちら。
https://www.facebook.com/events/305423613611037/?ti=icl

公演「たまたま黄身のままで」コマーシャル映像
https://youtu.be/40cSQFdHFp0

(写真撮影:中島諒)

 

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