振り返りの会の打ち上げの場で、
「観察」とその先にある、変化に対応するという点で、
“認識の違い”が似ているのではないかと思った話が出た。

 

弓道の弓を射る時に「離れ」と言う。
弓を引き、溜める。そして放つ時に、
自主的に「離す」のではなく、「離れ」
“ここ”という瞬間に矢が放たれなければならない。

 

離れるのを待つと、時間が掛かる。
当然、間に合わないだろう。
それは、武器として使用されるのには問題がある。

 

だから、武器としてではなく、
武道・たしなみ・精神論としてあるのではないか。
という話であった。

 

私は、弓道の経験もないし、詳しいわけでもない。
しかし、これも「離れ」と「離す」の違いを経験し、
それをしっかり認識しないと分からないのではないだろうか。

 

 

通常は、待って、目で確認して、“今”と判断し、
頭が命令を出し、「離す」。
目で確認した情報が、脳に伝達される時間、
頭が判断する時間、
頭が出した指令を筋肉に送る時間、
その指令を筋肉が受け取って動く時間、
それらの時間全て伴って「離す」になる。

 

引いた瞬間に“待ち”が出来ていれば、
頭の判断を待たずに、皮膚感覚で状況判断し、
“今”と思わずに身体が「離す」
思考・判断で離していないので、「離れる」となる。

 

 

判断する間がなくても矢を射ることができる。
戦いの中で使っていたからこそ「離れ」るのだろう。

 

私は弓道ではなく空手だが、
突き蹴りを出す時、動く時も同じ。

 

いかに突き・蹴りが「出る」、動きが「始まる」のが難しいか。
これは、精神論では決してなく、実感として有るものである。
(上2枚の写真、写真撮影:中島諒)

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