前回、「観察」について、
流れを作り出す際は必要であるとも思っている。と書いた。
が、「流れを作り出すためには」である。
流れの中では変化が出てくる。

 

この変化は、一緒にパフォーマンスをしている人達の反応が最も大きいが、
観ている人達の反応も影響がある。
そして、空気や温度、明るさの変化、物音など、
そういった環境が、自分、共演者、観客に影響を与え、
元々の体調と相俟って、生理的、心理的に変動する。
そうすると、刺激に対するからだの反応も変化する。

 

 

その変化に、瞬間的に応じなければならない。

 

視覚、聴覚で刺激を捉える。
捉えた刺激を脳まで伝達し、脳がその刺激を認識する。
その対処を判断し、どう処理するか決定し、指示する。
その指示を筋肉が受け取って行動する。
そうしている間に、状況は刻々と変化している。

 

クレマンが植物の成長しやすい状況に合わせて移動させるのと同様に、
「観察」によって動きやすい、音を出しやすい状況、
「やりたい」という要求を高める状況、
「こんな事をしたい」と新たな発想が生まれるのを促す状況、
「この空間に居たい」という安息できる状況、
などを予測して設定することができる。
その関係においてのベースになる。

 

そこに、「観察」の重要性がある。
しかし、その状況が流れ出すと、
「観察」にとらわれてはいけない。
「観察」の結果に固執してしまい、他の方向に目が向かなくなる。
小さな変化に対応できず、取り残されてしまう。
「あれ?」と想った時点ではすでにズレており、先に進んでいる。

 

 

それでも「観察」を軸に進んでいくと、
進んではいるが、そこに交流はなく、
思考して出てきた、とりあえず失敗はしないという所で落ち着いてしまう。
安心して展開できるし、それなりのものは出てくる。
この後に書く「共生の美学」にも出てくるが、
これも、メンバーの一人が話していた、
「あざとさ」につながってくると思っている。

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