「振り返りの会12」で
ワークショップでの楽しさを書いたが、
公演ではどうなのかという疑問になってくる。

ワークショップには、参加の意思を持って来られる。
しかし、公演に来られる観客は、
字の通り、客観的に“観る”という意識が強い。

 

 

だから、ワークショップに比べて、
価値観の部分で共有できない人も来るだろう。

価値観の共有がなければ、空間・時間の共有もない。
そうであれば、楽しさも分からない。
当然、面白くはないだろう。

 

 

子どもの“あそび”を見守っている大人のように、
子どもや障がいのある子が「頑張ってやってるね」という、
温かく見守っていると信じている立場。

 

 

その場合は、「素晴らしい活動をしている」と、
勝手に考えてくれて、また観に来てくれることはあるだろう。

しかし、楽しさ・面白さは伝わっていない。
あるいは、まったく意味が分からない。
この場合は、頭での納得が楽しさ・面白さの基準になっているので、
自分の理解の範囲を超えるものは納得できない。
しかし、納得できない・意味が分からないと思いながら、
何だか気になるということは起こり得る。

 

 

大きくは、この二点で「面白くない」となる観客が出ると思われる。

その対策として、意図的に行なっている訳ではないだろうが、
観客を巻き込むということがよく行なわれている。

今回の公演では、最初の野菜売りのシーン。
ここですでに、観客はパフォーマンスの一員に組み込まれる。

 

 

そして、渡瀬さんの“わちゃラップ”では、
完全に参加者になっている。
観客は、ワークショップの参加者と同様に、
無意識に価値観・空間・時間の共有がなされる。

 

 

ただ、それでも拒否感を持つ人は居るだろう。
その場合は、それらの共有も拒絶し、
からだの反応としての楽しさは味わうことができない。

振り付け、整理された動きをリズムに合わせるダンス、
自分の知っている音楽・曲といった、
頭の判断として“面白い”を探す。

 

 

それらは、おとあそび工房には無い。
残念ながら、おとあそび工房を面白いと思うことはない。

 

 

しかし、おとあそび工房に巻き込まれ、
価値観・空間・時間の共有をなされた人達は、
おとあそび工房の即興の特徴である、無意識的な感応によって、
何だか分からない身体のうずき・うごめき、が起り、
意識的な面白さにはない、
生命・魂が揺さ振られる楽しさを味わうことになる。

(撮影:中島諒)

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